今後の更新について

ドメイン消失などを経て読者数がかなり減ってしまった本ブログであるが、立ち上げた際のコンセプト(そんなものはないに等しいと言えばそうだが)と、今現在自分がやっている執筆の形式とがかなり乖離してきた感があるので、今後は別のプラットフォームにおいて文章を投稿していきたいと思っている。

 

 

note.com

 

興味のある人は覗きに来てもらえるとありがたい。

 

更新頻度は相変わらず低いままだとは思う。

 

窓用エアコンのしょうもなさ

「窓用エアコンを買ってはいけない」という話をしようと思う。

結論から書くと、思った以上に高くつくし、うるさいし、冷えないからだ。

 

窓用エアコン。名前の通り、窓に設置して使うものだ。大きさは、縦1m、横60cm、奥行き25cmくらい。自分の部屋の窓に、普通のエアコンよりもずんぐりした見た目の機械が据え置かれているところを想像してみてほしい。あまり見慣れない光景だろうと思う。

 

必要に駆られて、自らエアコンを設置しようとでもしない限り、窓用エアコンの存在すら知らずにいる人が多いかもしれない。何を隠そう、私がそうだった。

 

話は1年前に遡る。私はO市からI市へ引越しをした。色々の事情が重なって、4年間で4回も引越しをしたものだから、引越しそのものには慣れっこだったが、とにかく金が出ていって辛かった。引っ越しの度に私は自らに貧乏を加え、資産を失っていった。I市への引越しの際には調理器具一式と白物家電すら失っていた。自分でも訳が分からなかった。

 

そんな状況で、私が職場の宿舎に飛びついたのは無理もないことだった。家賃は格安だし、敷金だ礼金だのの初期費用が一切かからなかったのである。不動産屋であれこれ悩んでいた私だったが、宿舎という光明を見出して以降は、不動産屋の担当者への連絡をピタリと止め、目を輝かせて宿舎担当の課へ走った。運良く、2週間後に1室空くということだった。下見も何もせず、すぐに入居を決めた。

 

1週間で荷物をまとめ、冷蔵庫と洗濯機を買いに家電量販店に走った。家電を買ったはいいが、その時点でかなり心許ない資金しか手元に残らなかったため、引越し屋に頼むなどという贅沢は許されていなかった。これまでにもしていたように、レンタカーを借りて荷物を運び出すことにした。そうなると、新しい家電をO市の暫定住居に送ったところで、1週間後にはまたぞろ運び出してI市へ移すことになってしまう。家電はI市の宿舎に、入居日に合わせて送ってもらうことにした。

 

冷蔵庫がない状態で、引越しまでO市で過ごしている期間は辛かった。コンビニ飯や外食で済まそうにも金がない。今はとにかく節約だ。私は唯一残った家電である炊飯器で飯を炊き、インスタントの味噌汁と、冷蔵庫がなくても置いておける塩分濃度の高い梅干しで飢えを凌いだ。何で令和の時代に疎開中みたいな真似をしなければならないのかと腹立たしかった。洗濯物はある程度まとめて、自転車でコインランドリーまで持っていった。高そうな羽毛布団を恭しく洗濯機から取り出す主婦が憎かった。

 

引越し当日、私は晴れ晴れしい気持ちで、レンタルしたハイエースを運転し、積載した段ボールをガタガタ言わせながらI市へ向かった。よく晴れた土曜日だった。大学に合格した後や、就職が決まった後、卒業が確定した後、そういうときの気分によく似ていた。世界がくっきりとよく見えた。引っ越しすることになった経緯(ここでは割愛するが)も呪わしいものだったし、私が住んでいたO市の一角は、高速道路や大通りに面していたせいで、四六時中、緊急車両が走り回り、週末の夜更けには走り屋が改造マフラーの爆音を轟かせ、せめて残しておいてほしかった日曜の朝の静寂は右翼街宣車の拡声器によって簒奪された。

 

もうあんな思いをせずに、ゆっくり寝ることができるのだと思うと、それだけで嬉しさがこみ上げてきた。

 

I市の宿舎の周辺に着いてみると、都会の煤煙も、吐瀉物も、建物の隙間から漏れ出す得体の知れない臭気も、何もなかった。安心してハイエースから積荷を下ろし、エレベーターで部屋まで運ぶ。エレベーター内の鏡に、水商売から帰ってきた人々が外したコンタクトレンズが貼り付けられているというO市での悪夢が再現されることもなかった。I市は本当にいいところだなあ。

 

荷物を全て搬入した頃、冷蔵庫と洗濯機が運ばれてきた。そのときの頼もしさといったらなかった。これで脱いだ服をその日の内に洗えるのだ、これで納豆や鶏肉を買うことができるのだ。私は何をしたっていい。喜びを燃料にし、疎開飯と労働で疲れた体に鞭を打ち、レンタカーを店舗へ返却し、O市に呪いの言葉を吐いた後、電車でI市へとんぼ返りをした。

 

1年前の夏、関西地方は今年よりも暑かった。新居へ帰る頃には汗だくだった。私は夏の汗を何より憎むが、このときばかりは清々しい汗に感じたものだ。とはいえ、汗をかきっぱなしなのは具合が悪い。帰宅後、私は真っ先にシャワーを浴びることにした。脱衣所はなく、入居したてで窓にはカーテンも備わっていなかったから、段ボールを積み上げて目隠しにした。引越し早々、変態が越してきたなどと話題になっては困る。

 

汗を流した後、照明を取り付けたり、仕事着や身だしなみ用品等のすぐに必要なものを段ボールから取り出す必要があった。疲れていたが、まだ休めない。ただ、もう先の不安に苛まれることはなくなった。慎ましやかだが、静かな住居を確保し、家電も買い替え、正に心機一転だった。相変わらず金はないが、生活コストが下がったから貯金もしやすくなるだろう。焦らず、少しずつ身の回りを整えていこう。さて、まずは照明の取り付けといこう。いや、その前に部屋を冷やさないと。暑いったらないよ。

エアコンのリモコンを探そうとしてすぐ、私は嫌な予感がした。それがあるはずの場所を見上げ、私は絶望の底に突き落とされた。

 

エアコンがないのである。

 

6畳ワンルームの、エアコンがあるべきはずの場所、つまり掃き出し窓の上に、エアコンが、ないのである。

 

あるのは、かつての住人が使用していたであろうエアコンの長方形の設置跡と、ビス止め跡だけだった。私はあまりのショックに気をおかしくし、キッチンやトイレや果ては靴箱の中まで隈なく捜索したが、エアコンの姿はどこにも見当たらなかった。その年、ロシアがウクライナに侵攻し、知床で船が沈み、元首相が撃たれ、私の新居にはエアコンがなかった。その日の最高気温は38℃だった。私はすぐさまI市のことが嫌いになった。

 

私は1階に飛んでいき、帰ろうとしていた管理人を捕まえて説明を求めたところ、原状回復義務があるため、たとえエアコンだろうと退去時には取り外さなければならないということだった。つまり、何かの手違いでエアコンがなかったという訳ではなく、エアコンは姿を消すべくして消えていたのだった。

 

私は泣きながら水風呂に入って、アマゾンでエアコンの検索をかけていた。悲しみと、疲労と、暑さとで正常な判断力を失っており、この経済状態でエアコンなんか買えるものか、本体だけでもクソ高いのに設置費用までかかるし、もしすぐに転勤なんか命じられたらまた金を払って取り外してもらわないといけないなんて冗談じゃない、などと怒りに燃えて、普通のエアコンを買うことを早々に諦めてしまった。そうだよな、普通の賃貸とは違って宿舎なんだからエアコンがないっていう可能性も考えられたよな、というか下見すべきだったよね、などと反省などできるはずもなかった。

 

人の心が弱っているとき、新興宗教と窓用エアコンはつけ込んでくるものである。

 

なんとかして設置費用無しで冷えた空気を手に入れられないか画策し、私がたどり着いた結論が、窓用エアコンの購入だった。窓用エアコンは大がかりな工事の必要がなく、自力での取り付けが可能だということだった。普通のエアコンならば、取り付け工事費込みで10万円は下らないところ、窓用エアコンであれば、本体代の6万円で済ませることができそうだった。

 

普通のエアコンも買えないことはなかったのだが、このときは「自分で設置したるわ」という謎の意地と、苦境の中、自ら見出した窓用エアコンという活路に絶対の自信があり、迷いなく窓用エアコンの購入を決めたのだった。

 

ここで、窓用エアコンを買ってはいけない理由その1、「思った以上に高くつく」である(前置きが長すぎる)。

 

まず、これは少々イレギュラーな側面もあるが、去年は私が引っ越した6月の段階で35℃以上の猛暑日が相次いで記録され、エアコンの需要が逼迫していた。私が買おうとしていた窓用エアコンもその波に飲まれ、アマゾンで商品を確認した後、取り付け方法などを調べてから、さあ買おうと思ってアマゾンのページに戻ったところ、僅か10分そこらで1万円も値上げされてしまったのだ。それに加え、窓用エアコンという奴は、掃き出し窓のような大型の窓ではなく、小窓に設置することが前提となっているようで、私のように掃き出し窓に設置するには、エアコン本体を取り付けるフレームを延長させる部品を別途購入する必要があった。これが6500円。これで既に7万6500円であり、取り付け費用を除けば、なんだか普通のエアコンを買うのと大差ない気もしてきていたが、そこは意地が譲らなかった。

 

譲っておけばよかった。

 

フレームの延長パーツを買ってハイ一件落着、とはいかないのが窓用エアコンの憎いところだ。まず、窓用エアコンなんていうのを買おうと思う人が少ないので、ネットで調べたところで取り付け方法など紹介されていない・・・というと嘘になる。方法自体は紹介されているが、肝心な部分が書かれていないのだ。問題となるのは、前述の、本体を取り付けるためのフレームだ。窓用エアコン本体は20キロほどの重さがあり、フレームはそれに耐えうる頑強さを確保するために、窓枠に固定する必要がある。もっと具体的にいうと、フレームを、アルミサッシなり木なり、とにかく窓枠に穴をブチあけてビスでガチガチに固定する必要がある。

 

つまり、穴をあけるための電動ドリルが必要になるのだ。

 

暑さを耐え忍んだ末に窓用エアコンが届き、37℃の灼熱の中でいそいそと取り付け作業を始め、電動ドリルが無ければ何も始まらないと気が付いたときの絶望感は、エアコンが備え付けられていないということを知ったとき以上の圧力があったことを記憶している。私は修羅の形相で自転車を漕ぎ、近辺で電動ドリルを唯一売っていそうなショッピングモールに向かった。電動ドリルそのものは見つかったが、あろうことかアタッチメント(ドリルの刃)が付属しておらず、モールの中にも在庫がなかった。アマゾンに頼ったが、最短の配送日が2日後だった。

 

私は慟哭し、海岸に打ち上げられた湯葉のような情けない姿で眠った。

 

電動ドリル本体8000円、アタッチメント1500円、合計8万6000円。窓用エアコンは、そこまで安上がりではないのだ。

 

アタッチメントが届き、やっとのことで設置が完了し、いざスイッチを入れる。ここで、窓用エアコンを買ってはいけない理由その2「うるさい」である。

 

本当にうるさい。絶望的にうるさい。アマゾンのレビューに書かれているような「ちょっと稼働音が気になりますが」などというレベルではない。稼働させている間、部屋に置かれた物すべてが振動しているのではないかというような轟音が空間を支配する。私は、この強烈な稼働音に抗うために、本体に貼り付ける防音シート(2500円)やノイズキャンセリングイヤホン(4万円)まで購入したので、合計金額を12万8500円に訂正したいくらいだ。

 

さて、なぜこんなにもうるさいのかというと、窓用エアコンの構造に問題がある。ここで皆さんに、「エアコン」を頭の中でイメージしてみてほしい。窓用エアコンではなく、普通のエアコンだ。大抵の人が、白い長方形の物体を思い浮かべたことだろうと思う。もしくは、ビルや事務所によくあるような、天井に備え付けられた正方形の送風口を思い浮かべた人もいるかもしれない。だが、それは「エアコン」の全てではない。半分の姿でしかない・・・いやむしろ、主役は他にいる、と言ってもいいかもしれない。

 

そう、忘れがちなのが「室外機」の存在だ。灼熱の炎天下だったり、狭くてジメジメした日陰だったり、煤煙にまみれていたり、大抵は過酷な環境で、孤独にプロペラを回しているあの室外機だ。室外機のことを、何か水を垂れ流してるし前を通ると熱風を送ってくる鬱陶しい奴、なんて思ってはいけない。室外機があってこそ、我々は快適な温度を享受できるのだ。通常イメージするところのエアコン、つまり室内機は、室内の空気を熱交換機に触れさせて、空気を冷やしているだけなのだ。室内から吸収した熱を排熱しているのも、室内機にギンギンに冷えた冷媒を送り込んでいるのも、室外機がやっている仕事なのだ。圧縮機も膨張弁も、室外機に備わっているのであり、エアコンの心臓的な役割は室外機が担っている。室外機がなければ室内機は何もできない。室内機がセールスマン、ギター・ボーカルなら、室外機はエンジニアでベース・ドラムなのだ。殺人的な高温が相次ぐ現代、「エアコンの室外機」となどという付属品的な扱いはやめて「室外機と室内機でエアコン」なのだと認識を改めるステージに我々は立っている。

 

では窓用エアコンの場合はどうか。自力設置が可能ということは、室内機と室外機をつなぐややこしい配管をいじったりする必要がないということだ。というか、窓用エアコンに室内機・室外機という考え方はない。両方の機能をひとつの機械で行うからだ。つまり、部屋の中に室外機があるようなものなのだ。そんなものうるさいに決まっている。

 

「室外機をもっと敬え」と既に熱く語ってしまった後だが、室生犀星的な言い方をすれば「室外機は遠きにありて思ふもの」であって、窓用エアコンのように室内機と室外機が一体化してしまっている場合には、そんな理論は通用しなくなる。だってうるさいもの。室外機は、過酷な環境において、タフに働きつづけている姿をたまに思い出すからこそありがたいのであって、あいつが部屋の中にいるなんて大事だ。運転している間ずっとガウンゴウンうるさくってたまらない。走り屋や右翼街宣車に苛まれていた日々がフラッシュバックする。I市は何も悪いことをしていないがI市のことがどんどん嫌いになる。

 

(ちなみに防音シートは何の役にも立たなかったし、轟音はノイズキャンセリング機能を貫いて聞こえてきた)

 

さて、この「うるさい」問題と表裏一体なのが、窓用エアコンを買ってはいけない理由その3「冷えない」である。

 

窓用エアコンは体ひとつで、室内機と室外機、両方の機能を担っているという話をした。ということはつまり、排熱も行っているということである。そのため、窓用エアコンの取説には「本体背面から排熱を行うため、運転中は窓を開けて使用してくだい」という、冗談みたいなことが書いてある。「君はマジメにエアコンをする気があるのか」と問いただしたくなる。ちなみに窓をあけずに使用するとオーバーヒートして壊れる。

 

 ・・・まあ一応、外気が入り込まないようにパッキンなどが付属してはいるものの、完全に外気を遮断できるわけではないので、気休め程度にしかならない。実際、使用中はガンガン外気が入り込んで来ていた。ガムテープなどで補強すれば、多少マシになるだろうが、そうすると窓を開けることができなくなり、洗濯物が干せなくなる。もうどうしようもない。

 

というわけで、外の熱は入ってくるわ、そもそもの構造上、あらゆる機能が中途半端に終わっており、部屋を冷却する力そのものが弱い。外気温が35℃だとすれば、室内は体感で29℃くらいまでしか冷えなかった。それも、設定はマックスパワーの20℃で、冷えるのは本体の周辺2メートルくらいまで、である。

 

私がここまで6000字超を費やして窓用エアコンをこき下ろしたくなった最大の理由について話そう。連日の猛暑で、休日にどこか出かける気力もなく、家でゆっくり過ごそうと思った日曜日のことだった。午後3時頃、暑さもピークのそのときに、突如窓用エアコンが運転を止めてしまったのだ。説明書通り、窓を開けて使用していたのに。

 

原因は、西日だった。直射日光で本体がオーバーヒートしたのだ。本当に暑いときに頼りにならない。窓用エアコンは熱風を吐くだけの騒音機と化してしまった。「君は何をやらしてもダメだなあ!」と典型的なパワハラ文言を吐いて、私は窓用エアコンに腹パンを1発入れた。日が落ちた後には再び慎ましやかな冷風を吐くようになったが、昼間に熱風を吐くエアコンなどもう必要ない。

 

私は虚しくなってテレビをつけた。ジャパネットたかたが放映されていた。日立・白くまくんが、取り付け工賃込み・5年保証付きで、8万5000円で売られていた。テレビショッピングはこういうときに稼ぐのだなと納得して、私はジャパネットに電話をした。

 

今、白くまくんが静かに、そして力強く部屋を冷やしてくれている。その素晴らしさに感嘆するとともに、私のあの苦労は一体何だったのだろうと、時折空虚な気持ちになる。

妄想と実態

自己開示が苦手だ。特に、自分の好きなものごとについて話すのが苦手である。

 

好き嫌いは激しいほうだから、「これが好きだ」という意識ははっきりと持っているはずなのだが、実際に「どんなのが好きなの?」などと聞かれるとはたと困る。

 

たまにこういう会話についてイメトレをしているのだが、そのときの脳内には、もう溢れんばかりの表現力で好きなものごとについてまくし立てている自分がいる。口から湯水のように言葉が流れ出しているのだ。躁状態になった私の横で、聴き手として召喚された人も愉快に笑っている。私はさながらトークショーの主役といった具合だ。

 

ただ、これはただの妄想であって、現実ではこの10分の1もうまくいかない。先日、職場の人と食事に行ったときもそうだった。ちょっとした異動があり、私のプチ歓迎会を兼ねた食事会が行われた。その帰り道で、「休日はどう過ごしているのか」という話になった。普段なら「寝てばかりいる」「YouTubeをみてばかりいる」などとごまかして、踏み込んだ話題になるのを避けるのだが、職場の新しい人間関係に馴染むには簡単な自己開示も必要だろうと思い、私は勇気を出して「いつも本を読んでいます」と答えた。

 

すると自然に「どんな本を読んでいるの?」と聞かれる。「小説ばかりです」と答える。ここまでは問題なかったが、「どんな小説を読むの?」と更に踏み込んで聞かれるともうダメだった。

 

「うーん、なんでしょうね・・・色々読んでるんですけど、いざ聞かれるとぱっと思い浮かびません・・・」などと敗残兵のような情けない顔をして答えるハメになった。挙句の果てに「じゃあ今読んでる本は?」とまるで会話のレッスンでも受けている生徒のようにリードされる始末。そこまでお膳立てをされておきながら「え、えーと・・・魔の山っていう本なんですけど、主人公は肺を悪くしてサナトリウムにいるんですが、とある人に恋をして・・・この時代の小説ってすぐ人妻に恋するんですよね、何故なんでしょう、参っちゃいますよね、ハハ・・・」などと言って、笑いも次なる展開も生み出さず、「今なんか風が吹いていったね」くらいの印象をその場に残して会話が終わった。

 

妄想じみていながらも、私が「他人とするための会話のイメトレ」だと思っていたものは、実は「自分のためのコンテンツの整理」であって、実際の会話には何ら役立っていないことがよく分かった。

 

 

試験中のハプニング

今週のお題「試験の思い出」

 

ブログを開設して4年くらい経つが、初めて「今週のお題」というものに挑戦してみることにする。

 

「試験の思い出」ということだが、考えてみると意外と思いつかない。思い出に残るような試験であれば、それなりに本気で勉強したものだったり、人生がかかっていたものだったりすることが多いだろう。しかし、そういった思い出というのは大体が「試験勉強」の過程に凝縮されていて、肝心の試験本番ではただ集中して解いている状態だ。

 

歴代総理大臣の順番を覚えるための語呂合わせを考えたり、ひたすら英単語を書きなぐって覚えたり、定石とは少し違った数学の問題に悪戦苦闘したり、現代文の評論が存外に面白くて本を買ってみたくなったり等、「試験勉強」の思い出は枚挙にいとまがないが、「試験」の思い出となると、学校という環境に都合16年間も身を置いていたのに2つしか思い浮かばなかった。どちらも、思い出というかハプニングの類いではあるが・・・。

 

1つは中学3年のときの英語の定期試験での出来事である。中学校の定期試験となると、大学受験、国家試験、昇進試験などに比べれば人生にかかる影響はさほど大きくはない。とはいえ、中学3年の冬ともなれば多くの生徒が高校受験を意識せざるを得ない時期になる。私が通っていたのは田舎の公立中学校だったから、名門進学校を目指してクラス中がガチガチ、とまではいかないにしても、このときの英語の試験中もそれなりの緊張感が漂っていたと思う。ただ、公立中学というのは構造的に生徒の学力、もっと言えば生活態度にも大きくバラつきがあるため、どうしても試験中に大人しくできない者がいたりする。我が中学校で1番のガキ大将だった仮称竹山くんがそういう人物であった。

 

竹山くんは身長180cmと大柄で、肌も浅黒く、迫力のあるルックスをしていた。それに野球部で4番の強打者だったため、身体能力がスクールカーストの序列に直結する中学校の環境において、支配者階級に属する人物である。お調子者で人を笑わせるのが好きな人物だった。しかし人間性が優れているかといえば決してそうではなく、理由もなく人をどつく・殴る・しばくなどする常習的な粗暴犯であり、感情のブレーキが利かず、ひとたびキレると体育教師が3人ほど出動する必要があるような危険人物だった。手癖も悪く、自転車やコンビニのお菓子ならまだしも、工事現場から標識をくすねてくる、そしてそれを教室で振り回すなどする。一言で表すなら「田舎のヤンキー」「クソガキ」といったところか。

 

竹山くんが「お調子者」「キレたら手をつけられない」という2つの属性を持っているが故に、彼が少々過ぎた行為をしても迂闊に注意できないという問題があった。そういう背景があって今回の問題は起こった。この試験が実施された頃、竹山くんは野球部での実績が買われて、既に私立高校への推薦入学が決まっていた。平素から学業に興味がない彼にとって、このときの試験はいつも以上にやる気がでないものだったに違いない。他の皆が受験モードであることなどを彼が気にかけるはずもなく、1教科目の英語の試験が始まった途端、竹山くんは試験問題中の文章を大きな声でスピーキングし始め、周りの集中力を大いに削ぐ。試験監督の教師も「やめなさい」程度のことしか言えない。当然、竹山くんがそれで止まるはずもなく、ひととおり問題文の読み上げを終えた彼は、席を立ち上がり、教室を飛び出してしまった。

 

それでしばらくどこかに行っていてくれれば良かったものの、お調子者というのは自分の行為に対する他人の反応を楽しむからこそお調子者なのであって、飛び出してから1分もせずに竹山くんは教室に戻ってきた。今度はベランダに飛び出していく。悲劇というのは色々な要素が複雑に絡み合って引き起こされるもので、このときには我が中学校のベランダが1組~5組の教室まで壁などなくひと続きになっていたことが悲劇の構成要素の1つとなった。竹山くんは体力テストの科目のひとつであるシャトルランにおいて使用される「メリーさんの羊」を絶叫しながらベランダを疾走し、往復し始めた。

 

数ヶ月後に高校受験を控えるプレッシャーを抱え、必死に英文と向き合う中、突如ベランダを浅黒い男が疾走していくのを目撃した生徒諸君の動揺は察するに余りある。騒ぎを聞きつけた体育教師が集結し、竹山くんは取り押さえられ、体育教師たちはナイーブな彼を傷つけないよう細心の注意を払った説得をし、ひとまず席に座らせることに成功した。その後はしばらく大人しくしていた竹山くんだったが、リスニングの放送が始まるとこれ好機と言わんばかりに教室を再び飛び出し、放送室をジャックして「俺の話を聞け」とラジオパーソナリティの真似事を始めてしまい、事態は収拾がつかなくなってしまった。

 

この出来事に対し、学力に余裕があって定期試験など問題ではない生徒や、竹山くんのように学力と無縁の生徒は笑って済ませていたが、それらの中間に位置する生徒はうんざりした様子を見せていた。彼らにとってはまさに志望校に受かるか否かの瀬戸際の時期であって、竹山くんの行った行為を笑って済ませる心の余裕などなかっただろう。

 

以上のことを踏まえ、「試験の思い出」2つ目に移っていこう。

 

私が大学を受験したときの出来事だ。大学受験なんてついこの間のことのように思えるが、もう8年も前のことになる。

 

大学受験というのは、少なからぬ人々にとって人生の大きな岐路であり、そのプレッシャーは高校受験の比ではない。今年の共通テストでは「親ガチャ」が出題テーマにとりあげられたことで話題になったが、私がセンター試験を受けた年は、数ⅡBの平均点が39点と大荒れした。数ⅡBが終了した後の生徒控室の雰囲気は最悪だった。私のような文系人間はまだしも、普段は大きな得点源である数学に裏切られ、かつその後に理科2科目が控えている理系選択の生徒の落ち込みようは今でも強く記憶に残っている。聞いた話だが、別クラスの生徒はあまりのショックから「物理満点じゃなかったらパ〇パン、物理満点じゃなかったらパ〇パン」と1人でブツブツと自らに呪いをかけていたそうだ(その後、本当に満点をとったらしい)。少々話が逸れたが、このように気をおかしくしてしまうようなところまで追いつめられる可能性を、大学受験は孕んでいる。

 

私は都内の某私立大学を受験した。池袋というと何かと揶揄されることの多い印象だが、九州の田舎からはるばる受験しにきた私にとっては、まごうことなき洗練された大都会であり、「やべえな、すげえな」というやや崩壊した語彙力で興奮しながら受験会場に出向いたことを覚えている。

 

試験会場である大学からほど近い場所に親がホテルをとってくれたので、私は徒歩で会場に向かったが、近隣に住んでいるのであろう受験生が地下鉄からゾロゾロと蟻のように列をなして会場に向かっているのを見て戦慄した。まず「都会ってこんなにも人が多いのかよ」と思い、その後に「あの中に第一志望にしている奴は何人いるんだろう、この大学の対策なんて十分にしていないのに大丈夫だろうか、どこにも受からなかったらどうしよう」などと考えていた。滑り止め受験とはいえ、嫌でも気合が入った。

 

記憶がやや曖昧だが、私は経営学経営学科と経営学部国際経営学科の2つを受験し、それぞれの学科ごとに国・英・数の試験を受けた、気がする。1日に全てを終えてしまったか、2日に分けての受験だったかは憶えていない。

 

国際経営学科の試験は特に問題なく終えたのだが、経営学科の試験中にハプニングが起こったのだった。冬のせいかやけに水っぽい鼻水がでるなと思い、鼻をすすりながら問題を解いていたら、すすりきらなかったのかぽたっと問題文に水滴が落ちた。落ちた箇所をみると真っ赤に染まっている。鼻血が出たのだ。ヤバい、と思った瞬間には鼻血がぽたぽたと流れ出てくる。焦りながらも、鼻の付け根を抑え上を向いて応急処置を試みる私の脳内に浮かんだのは、竹山くんとパ〇パンの呪いをかける理系生徒だった。今ここで騒ぎ立てては、他の受験生に多大な迷惑がかかる。これは中学校の定期テストではなく、本物の大学受験なのだ。集中力を削がれることによる影響の大きさは比較にならない。竹山くんのときのように笑って済ませてくれる者など1人もいないだろう。全員があの理系生徒のように自らを呪うことになってしまうかもしれない。

 

そんな具合に、殊勝にもスポーツマンシップ的考えに則った私は、衣服がこすれる音にすら注意を払いながら、能のようにゆっくりとした動作で挙手をし、試験監督に意思表示をした。駆けつけてくれる試験監督のおっさん。ここで焦って「すみません、鼻血が出てしまったのですが」などと言葉を発してしまっては呪いが蔓延ることになろう。私は事前に「鼻血が出てしまったので、ティッシュをもらえませんか」と問題用紙の余白に書き込んだ部分を示し、言葉を発さず、周りへの影響を最小限に留められるように配慮しながらティッシュを要求した。

 

するとおっさんは、あろうことか「ヘェ、鼻血ですかァ!?」と大声を出してしまったのである。その瞬間に周りの空気が凍り付き、ぞわっと殺気のような圧力が周りの受験生から発せられたのを感じた。このおっさんはなんてことをしてくれたのだと思った。曲がりなりにも私だって目下試験中であり、その中で鼻血を出しながらも周りを気遣ってわざわざ筆談にしたというのに、その配慮を粉々に打ち砕いてきたのだった。というか今でも強く記憶に残っているが、寿司屋の大将が外国人観光客に予想外の注文をされて驚いた、みたいな「ヘェ、鼻血ですかァ!?」というリアクションに腹が立って仕方がなかった。

 

そんなこんなで私自身が集中力を失ってしまい、全く試験に手ごたえがなかったのだが、不思議なもので何もなかった国際経営学科には不合格で、鼻血を出しながらの経営学部には合格したのだった。

 

ブログ再開します

やんごとなき事情があり、長らくブログを放置しておりました。画像は適当にミッドジャーニーに描かせた絵です。アカウント含めてブログ丸ごと引っ越ししたいな、面倒くさそうだな、思っていましたが、インポートファイルの出入力で簡単に出来ることが発覚。何故か一部の記事がインポート出来ておりませんが、とりあえず再開していこうと思います。

 

文章を書くという行為自体は、紙に書いている日記と、一攫千金を狙って書き始めた公募用の小説(10万字目標なのに、まだ5.5万字しか書いてない。ははは。)で継続していましたが、ある程度まとまった文字数で、気軽に人に読んでもらう文章を書きたいと思うタイミングがやっぱりあって、そうなるとブログというプラットフォームが必要になりました。

 

まあ、面倒くさいとか飽きたとか、そういう理由で更新をストップしていた訳ではないんですけどね。また細々とやっていきます。レイアウトとか若干変わってて気持ちが悪いので、その辺のメンテもしなければ・・・。

海外と日本

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高校生の頃に買って以来放置していた『カラマーゾフの兄弟』をようやく読み終えた。一旦読み始めてしまえば1ヵ月で読み終えたが、実に8年越しの読了である。ドストエフスキー作品には『罪と罰』から入ったのだが、これが強烈に面白かったので、最高傑作と名高いカラマーゾフの兄弟も読んでみることにした。そしてすぐに挫折した。

 

罪と罰』は上・中・下巻合わせて1200ページほど(岩波文庫版)で、当時高校生の私からすれば、中々に頑張って読んだ作品だった。読了できたのは、単純に、この作品が読み易かったことが大きい。序盤にマルメラードフという男が登場するのだが、この男というのが、怒り狂った女房に髪を掴まれ振り回されの暴行を受ける中、「これも私には快楽なんですよ!苦しみじゃなくて、か・い・ら・くなんだ、あなたァ」と絶叫する変態で、私はこの男が大のお気に入りだった。こういう強烈さが59ページという序盤から繰り出されたし、そこから100ページばかり読み進めれば、ラスコーリニコフの殺人という、大きな出来事も発生するので、物語として取っ掛かりやすかった。

 

カラマーゾフの兄弟はというと、上・中・下巻で約2000ページ(新潮文庫版)を誇る。それに加え、序盤が退屈だ。登場人物達の個性が発揮されるには170ページは読み進めなければならない。この辺りで個人的に名セリフだと思っている、フョードルの「ウグイで神さまが買えると思っているんだ!」が繰り出される。その後は色々な小諍いを通じて、人物像がありありと描写されるので、面白くなってくる。

 

しかし、この作品のテーマである、キリスト教と神の話に突入すると、無教養な私はアヘアヘいいながら前頭葉をショートさせて食らいつくしかない。この話題になるとキリスト教への造詣が深くないと何が話されているかてんで分からない。そして、そういう部分は大抵長い。『大審問官』は有名だが、正直凄さが分からなかった。理解するには勉強が必要そうだ。私もいつか上司に怒られたときには物言わず接吻しようと思った。チュッ。

 

とはいえキリスト教の知識がなくとも楽しめる作品だ。ゾシマ長老のエピソードでは、現代においても、というか人間関係における普遍的かつ核心を突いた警句がいくつも出てくるので、自分の環境や経験に当てはめながら読むことができる。こういう読み方が出来たので今回は読了できた。大学生の頃に再挑戦した際には、「難解なテーマを理解しよう!」息巻いていたので、あえなく撃沈した。まぁ、私には真の理解は多分、無理だ。

 

もうひとつの挫折ポイントとしては、セリフがやたらに長いことだ。ホフラコワ夫人とイッポリート検事の話がとにかく長かった。特に後者。数えてみるとほぼセリフだけで60ページもあったのだ。このシーンは裁判の非常に見ごたえのある場面なのだが、それにしてもしんどかった・・・。ホフラコワ夫人は相手の話を聞かず、ヒステリックに自分の話を乱射しているのでただ不快だった。

 

そんなしんどさはあるが、それでもフョードルの道化っぷりや、ミーチャの無茶な金策、繊細な天才イワン、癒しのアリョーシャ、実はキレキレのスメルジャコフなどなど、とにかくキャラが立った作品だった。私はイワンが好きだったので、その結末は切なかった。2000ページを読み通したことで、読書力にも多少の自信が着いたので、積読になっている他の小説を読み進めていくことにした。

 

日本文学に長いこと触れていなかったし、ロシア文学の雰囲気にあてられたせいか、急に日本の、美しい文章が読みたくなった。そこで、これまた積読になっていた三島由紀夫の『金閣寺』を取り出した。これも7年くらい経っている。放置しすぎである。何度か挑戦はしたが、序盤に主人公が吃りをからかわれる場面で辛くなってやめてしまっていた。

 

しかしカラマーゾフの直後に読んだのが効いたのか、驚くほど面白くて一気に読んでしまった。兎にも角にも日本語が非常に美しい。ひとつひとつの文章が染み入ってきて、情景を思い浮かべながらじっくりと物語に浸ることができた。特に、雨と、陰影と、寂しさと静けさの描写が素晴らしかった。とりわけ気に入ったのは「母のちぢれた後れ毛が私の頬にさわったとき、薄暮の中庭の苔蒸した蹲踞の上に、私は一羽の蜻蛉が羽を休めているのを見た。夕空はその小さな円形の水の上に、堕ちていた。物音はどこにもなく、鹿苑寺はそのとき無人の寺のように思われた。」という一節だ。

 

言葉とは、かくも美しく操ることができるのかと愕然とした。比べることすらおこがましいが、いつも私が書いている、無駄な装飾を付けまくり、蛇足どころか百足のようになった文章など恥ずかしくて見ていられなくなってしまう。

 

金閣寺』には日本文学の素晴らしさを痛感させられた。今は梶井基次郎を読んでいる。兎に角、今は美しい文章に触れたい。ひたすらに触れたい。合間に焼酎でも飲みながら種村季弘の漫遊記シリーズでもつまんでいたい。

好きなゲームBGM紹介&エルデンリングへの希望 Bloodborneより『Hunter’s Dream』

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これ。専ら作業用。10時間にループさせたバージョンを流していると捗る。ゲームをやったことが無い人に説明すると、このBGMはレベルアップや消耗品の購入、武器の改造といった作業ができる、「狩人の夢」と呼ばれる拠点兼作業所のような場所で流れるものだ。

 

狩人の夢は小さな古教会のような外観で、中には棚、工房道具、暖炉、床に積まれた大量の本、隠居した爺などが配置されている。ここの雰囲気がとても好き。ローリングで本をとっ散らかしたりしてつい遊んでしまう。このゲーム特有のシステムで、他プレイヤーが命を落とした場所に血痕が付くというものがあるのだが、狩人の夢は自殺した他プレイヤーの血痕に塗れていることが多々ある。やめてほしい。夢の中でくらい穏やかでいようよ・・・。

 

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外観

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右手前にアイテム保管庫、右奥に工房道具(武器強化)、真ん中奥がカレル文字の祭壇(バフ)

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工房道具の様子。プレイヤーで隠れているが暖炉あり。

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本は読めないが蹴って遊べる。代わりに各地に意味深なメモ書きがあり、それは読める。

という苦言は置いておいて、ゲームシステム上においても、自殺によるメリットはないと言って良いので、この狩人の夢という場所が、私にとってだけではなく、ついつい自殺してみたり、本を蹴飛ばしたり、爺や人形を一発殴ったり、意味のない暇つぶしを行ってしまう場所だということが、大量の血痕から察せられる。

 

ブラッドボーンは基本的に難易度が高いゲームだし、道中もおどろおどろしい雰囲気だったりビックリ要素があったりするので、心を慰めてくれる静養所としての機能も狩人の夢は持ち合わせている。このBGMもそれに一役買っているという訳だ。私はブラッドボーンのプレイを通じて、この曲にそういった意味を見出しているので、これを聞くと落ち着いて作業ができる。素晴らしい。

 

PS4のテーマをブラッドボーンに変更すると、ホーム画面でこの曲が流れ続ける。学生時代にはよくPS4をスタンバイモードにすらせずに放置していたことがよくあったが、その間もずっと流れていたことになる。その間、私は何をするでもなくただ放心していた気がする。別に病んでるとかそういう訳では全くなくて、ただボーっとしているだけだ。とはいえやらなければいけないことが無いという訳ではない。攻略を進めてボスを倒す、という目的がありながら、疲れてしまってただ狩人の夢で色々な暇つぶしに興じるプレイヤーさながら、大学生の狩りの対象である単位とか就活とかから逃避しているときにこの曲が流れていた。

 

というと、すごくマイナスなイメージを持ってしまいそうだが、私の中でこの曲は前述したように「落ち着いて作業ができる」というイメージで定着した。図書館だとか書斎だとか、本がある空間だったり、事務所や研究所のような作業の場が好きなタチなので、そういった要素を持った狩人の夢のBGMが「落ち着いて作業」というイメージに帰着するのはまあ当然と言えるのかもしれない。

 

 

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そんな訳で作業用BGMとしてはこれも好みドンピシャ。同じ投稿者から色々シリーズで動画が出ているが、正直、サムネとタイトルだけ変えて音源は使いまわしなのでは・・・と思うくらい内容は似ている。まあどれも作業用としては優秀なので問題ない。研究所とか小屋とか図書館なんかをテーマにしたものが多い。

 

フロムゲーといえば近日エルデンリングが発売されるが、是非とも狩人の夢的なロケーションが複数個所実装されていることを願う。例えば、ダクソでいう魔術、呪術、奇跡それぞれに研究拠点みたいなものがあって、手持ちの魔法を組み合わせて新たな魔法を生み出したり、誓約強化のように何か捧げたりとか。そういうのがいくつかあると良いなと思う。まあゲーム的には全部一緒くたにした方が都合が良いのだろうけど。各拠点には、それぞれ上位互換の施設(大学なのか上級庁みたいなものか、はたまた秘密結社か何でもいいけど)みたいなのがあるとワクワクが加速する気がする。

 

ヴィンハイムのオーベックがやっていた研究というものをプレイヤーに体感させて欲しい。ソウル払ってさあ習得、では何か味気ない。強力な魔法に関しては、色んなNPCの話を聞いて回ったり、歴史的建造物を回ったり、暗号のようなものを読み解いたりして、ようやっと入手、くらいにしても面白いんじゃないかなあ。フロムのことだから入手難易度が高いものほどカスみたいな性能になりそうではあるが・・・。

 

何にせよ期待。待ってます。