海外と日本

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高校生の頃に買って以来放置していた『カラマーゾフの兄弟』をようやく読み終えた。一旦読み始めてしまえば1ヵ月で読み終えたが、実に8年越しの読了である。ドストエフスキー作品には『罪と罰』から入ったのだが、これが強烈に面白かったので、最高傑作と名高いカラマーゾフの兄弟も読んでみることにした。そしてすぐに挫折した。

 

罪と罰』は上・中・下巻合わせて1200ページほど(岩波文庫版)で、当時高校生の私からすれば、中々に頑張って読んだ作品だった。読了できたのは、単純に、この作品が読み易かったことが大きい。序盤にマルメラードフという男が登場するのだが、この男というのが、怒り狂った女房に髪を掴まれ振り回されの暴行を受ける中、「これも私には快楽なんですよ!苦しみじゃなくて、か・い・ら・くなんだ、あなたァ」と絶叫する変態で、私はこの男が大のお気に入りだった。こういう強烈さが59ページという序盤から繰り出されたし、そこから100ページばかり読み進めれば、ラスコーリニコフの殺人という、大きな出来事も発生するので、物語として取っ掛かりやすかった。

 

カラマーゾフの兄弟はというと、上・中・下巻で約2000ページ(新潮文庫版)を誇る。それに加え、序盤が退屈だ。登場人物達の個性が発揮されるには170ページは読み進めなければならない。この辺りで個人的に名セリフだと思っている、フョードルの「ウグイで神さまが買えると思っているんだ!」が繰り出される。その後は色々な小諍いを通じて、人物像がありありと描写されるので、面白くなってくる。

 

しかし、この作品のテーマである、キリスト教と神の話に突入すると、無教養な私はアヘアヘいいながら前頭葉をショートさせて食らいつくしかない。この話題になるとキリスト教への造詣が深くないと何が話されているかてんで分からない。そして、そういう部分は大抵長い。『大審問官』は有名だが、正直凄さが分からなかった。理解するには勉強が必要そうだ。私もいつか上司に怒られたときには物言わず接吻しようと思った。チュッ。

 

とはいえキリスト教の知識がなくとも楽しめる作品だ。ゾシマ長老のエピソードでは、現代においても、というか人間関係における普遍的かつ核心を突いた警句がいくつも出てくるので、自分の環境や経験に当てはめながら読むことができる。こういう読み方が出来たので今回は読了できた。大学生の頃に再挑戦した際には、「難解なテーマを理解しよう!」息巻いていたので、あえなく撃沈した。まぁ、私には真の理解は多分、無理だ。

 

もうひとつの挫折ポイントとしては、セリフがやたらに長いことだ。ホフラコワ夫人とイッポリート検事の話がとにかく長かった。特に後者。数えてみるとほぼセリフだけで60ページもあったのだ。このシーンは裁判の非常に見ごたえのある場面なのだが、それにしてもしんどかった・・・。ホフラコワ夫人は相手の話を聞かず、ヒステリックに自分の話を乱射しているのでただ不快だった。

 

そんなしんどさはあるが、それでもフョードルの道化っぷりや、ミーチャの無茶な金策、繊細な天才イワン、癒しのアリョーシャ、実はキレキレのスメルジャコフなどなど、とにかくキャラが立った作品だった。私はイワンが好きだったので、その結末は切なかった。2000ページを読み通したことで、読書力にも多少の自信が着いたので、積読になっている他の小説を読み進めていくことにした。

 

日本文学に長いこと触れていなかったし、ロシア文学の雰囲気にあてられたせいか、急に日本の、美しい文章が読みたくなった。そこで、これまた積読になっていた三島由紀夫の『金閣寺』を取り出した。これも7年くらい経っている。放置しすぎである。何度か挑戦はしたが、序盤に主人公が吃りをからかわれる場面で辛くなってやめてしまっていた。

 

しかしカラマーゾフの直後に読んだのが効いたのか、驚くほど面白くて一気に読んでしまった。兎にも角にも日本語が非常に美しい。ひとつひとつの文章が染み入ってきて、情景を思い浮かべながらじっくりと物語に浸ることができた。特に、雨と、陰影と、寂しさと静けさの描写が素晴らしかった。とりわけ気に入ったのは「母のちぢれた後れ毛が私の頬にさわったとき、薄暮の中庭の苔蒸した蹲踞の上に、私は一羽の蜻蛉が羽を休めているのを見た。夕空はその小さな円形の水の上に、堕ちていた。物音はどこにもなく、鹿苑寺はそのとき無人の寺のように思われた。」という一節だ。

 

言葉とは、かくも美しく操ることができるのかと愕然とした。比べることすらおこがましいが、いつも私が書いている、無駄な装飾を付けまくり、蛇足どころか百足のようになった文章など恥ずかしくて見ていられなくなってしまう。

 

金閣寺』には日本文学の素晴らしさを痛感させられた。今は梶井基次郎を読んでいる。兎に角、今は美しい文章に触れたい。ひたすらに触れたい。合間に焼酎でも飲みながら種村季弘の漫遊記シリーズでもつまんでいたい。