試験中のハプニング

今週のお題「試験の思い出」

 

ブログを開設して4年くらい経つが、初めて「今週のお題」というものに挑戦してみることにする。

 

「試験の思い出」ということだが、考えてみると意外と思いつかない。思い出に残るような試験であれば、それなりに本気で勉強したものだったり、人生がかかっていたものだったりすることが多いだろう。しかし、そういった思い出というのは大体が「試験勉強」の過程に凝縮されていて、肝心の試験本番ではただ集中して解いている状態だ。

 

歴代総理大臣の順番を覚えるための語呂合わせを考えたり、ひたすら英単語を書きなぐって覚えたり、定石とは少し違った数学の問題に悪戦苦闘したり、現代文の評論が存外に面白くて本を買ってみたくなったり等、「試験勉強」の思い出は枚挙にいとまがないが、「試験」の思い出となると、学校という環境に都合16年間も身を置いていたのに2つしか思い浮かばなかった。どちらも、思い出というかハプニングの類いではあるが・・・。

 

1つは中学3年のときの英語の定期試験での出来事である。中学校の定期試験となると、大学受験、国家試験、昇進試験などに比べれば人生にかかる影響はさほど大きくはない。とはいえ、中学3年の冬ともなれば多くの生徒が高校受験を意識せざるを得ない時期になる。私が通っていたのは田舎の公立中学校だったから、名門進学校を目指してクラス中がガチガチ、とまではいかないにしても、このときの英語の試験中もそれなりの緊張感が漂っていたと思う。ただ、公立中学というのは構造的に生徒の学力、もっと言えば生活態度にも大きくバラつきがあるため、どうしても試験中に大人しくできない者がいたりする。我が中学校で1番のガキ大将だった仮称竹山くんがそういう人物であった。

 

竹山くんは身長180cmと大柄で、肌も浅黒く、迫力のあるルックスをしていた。それに野球部で4番の強打者だったため、身体能力がスクールカーストの序列に直結する中学校の環境において、支配者階級に属する人物である。お調子者で人を笑わせるのが好きな人物だった。しかし人間性が優れているかといえば決してそうではなく、理由もなく人をどつく・殴る・しばくなどする常習的な粗暴犯であり、感情のブレーキが利かず、ひとたびキレると体育教師が3人ほど出動する必要があるような危険人物だった。手癖も悪く、自転車やコンビニのお菓子ならまだしも、工事現場から標識をくすねてくる、そしてそれを教室で振り回すなどする。一言で表すなら「田舎のヤンキー」「クソガキ」といったところか。

 

竹山くんが「お調子者」「キレたら手をつけられない」という2つの属性を持っているが故に、彼が少々過ぎた行為をしても迂闊に注意できないという問題があった。そういう背景があって今回の問題は起こった。この試験が実施された頃、竹山くんは野球部での実績が買われて、既に私立高校への推薦入学が決まっていた。平素から学業に興味がない彼にとって、このときの試験はいつも以上にやる気がでないものだったに違いない。他の皆が受験モードであることなどを彼が気にかけるはずもなく、1教科目の英語の試験が始まった途端、竹山くんは試験問題中の文章を大きな声でスピーキングし始め、周りの集中力を大いに削ぐ。試験監督の教師も「やめなさい」程度のことしか言えない。当然、竹山くんがそれで止まるはずもなく、ひととおり問題文の読み上げを終えた彼は、席を立ち上がり、教室を飛び出してしまった。

 

それでしばらくどこかに行っていてくれれば良かったものの、お調子者というのは自分の行為に対する他人の反応を楽しむからこそお調子者なのであって、飛び出してから1分もせずに竹山くんは教室に戻ってきた。今度はベランダに飛び出していく。悲劇というのは色々な要素が複雑に絡み合って引き起こされるもので、このときには我が中学校のベランダが1組~5組の教室まで壁などなくひと続きになっていたことが悲劇の構成要素の1つとなった。竹山くんは体力テストの科目のひとつであるシャトルランにおいて使用される「メリーさんの羊」を絶叫しながらベランダを疾走し、往復し始めた。

 

数ヶ月後に高校受験を控えるプレッシャーを抱え、必死に英文と向き合う中、突如ベランダを浅黒い男が疾走していくのを目撃した生徒諸君の動揺は察するに余りある。騒ぎを聞きつけた体育教師が集結し、竹山くんは取り押さえられ、体育教師たちはナイーブな彼を傷つけないよう細心の注意を払った説得をし、ひとまず席に座らせることに成功した。その後はしばらく大人しくしていた竹山くんだったが、リスニングの放送が始まるとこれ好機と言わんばかりに教室を再び飛び出し、放送室をジャックして「俺の話を聞け」とラジオパーソナリティの真似事を始めてしまい、事態は収拾がつかなくなってしまった。

 

この出来事に対し、学力に余裕があって定期試験など問題ではない生徒や、竹山くんのように学力と無縁の生徒は笑って済ませていたが、それらの中間に位置する生徒はうんざりした様子を見せていた。彼らにとってはまさに志望校に受かるか否かの瀬戸際の時期であって、竹山くんの行った行為を笑って済ませる心の余裕などなかっただろう。

 

以上のことを踏まえ、「試験の思い出」2つ目に移っていこう。

 

私が大学を受験したときの出来事だ。大学受験なんてついこの間のことのように思えるが、もう8年も前のことになる。

 

大学受験というのは、少なからぬ人々にとって人生の大きな岐路であり、そのプレッシャーは高校受験の比ではない。今年の共通テストでは「親ガチャ」が出題テーマにとりあげられたことで話題になったが、私がセンター試験を受けた年は、数ⅡBの平均点が39点と大荒れした。数ⅡBが終了した後の生徒控室の雰囲気は最悪だった。私のような文系人間はまだしも、普段は大きな得点源である数学に裏切られ、かつその後に理科2科目が控えている理系選択の生徒の落ち込みようは今でも強く記憶に残っている。聞いた話だが、別クラスの生徒はあまりのショックから「物理満点じゃなかったらパ〇パン、物理満点じゃなかったらパ〇パン」と1人でブツブツと自らに呪いをかけていたそうだ(その後、本当に満点をとったらしい)。少々話が逸れたが、このように気をおかしくしてしまうようなところまで追いつめられる可能性を、大学受験は孕んでいる。

 

私は都内の某私立大学を受験した。池袋というと何かと揶揄されることの多い印象だが、九州の田舎からはるばる受験しにきた私にとっては、まごうことなき洗練された大都会であり、「やべえな、すげえな」というやや崩壊した語彙力で興奮しながら受験会場に出向いたことを覚えている。

 

試験会場である大学からほど近い場所に親がホテルをとってくれたので、私は徒歩で会場に向かったが、近隣に住んでいるのであろう受験生が地下鉄からゾロゾロと蟻のように列をなして会場に向かっているのを見て戦慄した。まず「都会ってこんなにも人が多いのかよ」と思い、その後に「あの中に第一志望にしている奴は何人いるんだろう、この大学の対策なんて十分にしていないのに大丈夫だろうか、どこにも受からなかったらどうしよう」などと考えていた。滑り止め受験とはいえ、嫌でも気合が入った。

 

記憶がやや曖昧だが、私は経営学経営学科と経営学部国際経営学科の2つを受験し、それぞれの学科ごとに国・英・数の試験を受けた、気がする。1日に全てを終えてしまったか、2日に分けての受験だったかは憶えていない。

 

国際経営学科の試験は特に問題なく終えたのだが、経営学科の試験中にハプニングが起こったのだった。冬のせいかやけに水っぽい鼻水がでるなと思い、鼻をすすりながら問題を解いていたら、すすりきらなかったのかぽたっと問題文に水滴が落ちた。落ちた箇所をみると真っ赤に染まっている。鼻血が出たのだ。ヤバい、と思った瞬間には鼻血がぽたぽたと流れ出てくる。焦りながらも、鼻の付け根を抑え上を向いて応急処置を試みる私の脳内に浮かんだのは、竹山くんとパ〇パンの呪いをかける理系生徒だった。今ここで騒ぎ立てては、他の受験生に多大な迷惑がかかる。これは中学校の定期テストではなく、本物の大学受験なのだ。集中力を削がれることによる影響の大きさは比較にならない。竹山くんのときのように笑って済ませてくれる者など1人もいないだろう。全員があの理系生徒のように自らを呪うことになってしまうかもしれない。

 

そんな具合に、殊勝にもスポーツマンシップ的考えに則った私は、衣服がこすれる音にすら注意を払いながら、能のようにゆっくりとした動作で挙手をし、試験監督に意思表示をした。駆けつけてくれる試験監督のおっさん。ここで焦って「すみません、鼻血が出てしまったのですが」などと言葉を発してしまっては呪いが蔓延ることになろう。私は事前に「鼻血が出てしまったので、ティッシュをもらえませんか」と問題用紙の余白に書き込んだ部分を示し、言葉を発さず、周りへの影響を最小限に留められるように配慮しながらティッシュを要求した。

 

するとおっさんは、あろうことか「ヘェ、鼻血ですかァ!?」と大声を出してしまったのである。その瞬間に周りの空気が凍り付き、ぞわっと殺気のような圧力が周りの受験生から発せられたのを感じた。このおっさんはなんてことをしてくれたのだと思った。曲がりなりにも私だって目下試験中であり、その中で鼻血を出しながらも周りを気遣ってわざわざ筆談にしたというのに、その配慮を粉々に打ち砕いてきたのだった。というか今でも強く記憶に残っているが、寿司屋の大将が外国人観光客に予想外の注文をされて驚いた、みたいな「ヘェ、鼻血ですかァ!?」というリアクションに腹が立って仕方がなかった。

 

そんなこんなで私自身が集中力を失ってしまい、全く試験に手ごたえがなかったのだが、不思議なもので何もなかった国際経営学科には不合格で、鼻血を出しながらの経営学部には合格したのだった。