SHUGAKU RYOKO

部屋を整理していたら昔の日記を発掘し、修学旅行の感想が詳細に記してあったため、これは考古学的価値があるということで(ないです)、記録と記憶を頼りに、旅行記をアップデートしようという試みである。確かこのブログで旅行紀を書いたことが無かったので、ジャンルを増やすという意味でも丁度いい。最近長文を書いていなかったから、その意味でも記事を書くのにいい題材。しばしお付き合いいただきたく。

 

私の体験を8年越しに皆様にお伝えできればと思う。そしてご自身の修学旅行の記憶を呼び起こして楽しんでほしい。

 

 2012年、冬。マヤ文明の予言がどうだかで、タイトルそのまま『2012』などといういい加減な映画が公開された頃、当時高校2年生だった私は来る修学旅行に胸をふくらませていた。

 

(後で調べたところ、『2012』は2009年に公開されていた。のっけから嘘つきである。)

 

高2の冬、ということで高校生活最後の楽しいイベントであり、それが終われば後は受験が控えていることは、誰もが分かっていることだった。一時の楽園を求め、私は親から借り受けたスーツケースに荷物を詰め込み、何をするかは決まっているにも関わらず、「何をしようか」と考えながら眠りについた。

 

旅行のスケジュールとしては、まず東京へ飛び、そこからバスで長野に赴く。2泊3日でスキーをした後、東京へ戻りディズニーランドで夢のひとときを過ごし舞浜のホテルで一泊。最終日は東京で自由行動というものだった。

 

担任教師は「間違いなくスキーが一番の思い出になるぞぉ」と絶叫していたが(実際そうなった)、私は夜な夜な友達とカラオケに興じている女子高校生が、どこからともなく現れる牛頭の化物に拉致されるというニュースが頻繁に報じられるような宮崎県の辺境で生まれ育ったため、とにかくメガロポリスTokyoが楽しみで仕方がなかった。

 

旅行1日目。この日はほぼ移動に費やされた。朝5:30、空港までのバスが出る市営球場へとに父親に送ってもらった。車中では、当時冷めた感じがかっこいいと勘違いしていた私は「かったりィな」みたいなことを呟きながら、内心ワクワクであった。かわいい。小生、かわいい。

 

1時間ほどバスは走り、「宮崎ブーゲンビリア空港」という名称が度々含みのある笑いと共に話題にされる空港に到着し、田吾作共はまだ見ぬ巨大都市に空輸されていくのであった。私はそれまで飛行機という乗り物を利用したことがなかったため、離陸時に体にかかるGにえらく興奮したことが強く記憶に残っている。遥か上空から見下ろす地表と雲に感動して、しょっぱい性能のCanonコンデジで何枚も写真を撮った。今でも飛行機にのったときに雲の写真を撮ってしまうのはここだけの話である。

 

東京に到着。全てが新鮮だった。街の人間全てがオシャレに見えた。バスガイドの説明はあまり覚えていないが、「右に見えますのが最高裁判所」「東京の木はイチョウ」という説明だけ記憶に残っている。私はイチョウまでもが瀟洒な存在に思えてきた。葉がほとんど枯れ落ちてしまったイチョウに黄金色の幻覚を見て、将来は絶対東京に住もうと固く決心したのであった。その6年後、東京での新入社員研修で幻想は砕かれた。田吾作ボーイはたった数回の満員電車で心を病んでしまったのだった。以来、私は嫌なことがある度に脳内に壮大なイチョウ並木を召喚し、並木道の脇に建つイチョウを建築材とした掘立小屋の中で銀杏を剥き続けるという妄想をすることで逃避行としなければならない憂き目に遭っている。そんな訳で私はテンションが下がると体臭が銀杏臭を帯びてくる。治療法はあるのだろうか。

 

長野までのバスは片道5時間あり、宿に着く頃には疲労しきっていた。私は中学3年から高校1年までの1年間、深夜放送枠の所謂萌アニメに傾倒したことがあり(宮崎県には民放が2局しかないため、今は亡きアニチューブを利用していた。ごめんなさい。)、そういうアニメ中での修学旅行というのは、得てして男女が仲を深めるイベントであるという描写をされていたことが多かった。バスで隣席を確保する、急カーブで肩がぶつかり合う、誤って女湯に入浴する等。最後の例はまずないとしても、前2つは実際にあっても何らおかしくはないと思う。

 

高校は典型的な田舎の進学校であり、男女共学だったが、我々のクラスに限ってはそういったイベントは皆無であった。全7クラス中、5クラスが普通科、2クラスが理数科とに分けられており、我々は理数科であった。理数科の方が平均的な学力は高いものの、帰宅部の割合高し、メガネ率高し、コミュニケーション力低し、童貞率99.8%という具合だった。「ある高校生が3年間で経験した青春度」みたいなものを数値化することができたとしたら、理数科の人間は普通科の人間に33-4で大敗するような状況であった。

 

要するに我々はモテなかったのである。クラス内男女の間には地雷、お堀、針山、溶岩地帯など考えられる限りの障害が立ち並んでおり、とても先述のようなイベントを催せる空気ではなかった。挑む者もいたが、数時間後に変わり果てた姿で発見された。もちろん理数科にもモテる男は存在し、彼女がいる者もいた。しかし彼らの多くはクラス内での活動に早々に見切りをつけ、他クラスで彼女を作るという、外貨獲得のために積極的に貿易するオランダみたいなムーヴメントをしていたため、来るディズニーランドでの彼女を想起しながら、悶々とした時間を過ごしていた。「ディズニー、楽しみだね」とかLINEでじゃれ合っていたかもしれない。一方、私のような鎖国体制を敷いた非モテの男子諸君は、アンチグローバリズムの沈殿した車内で互いの尻を撫で合うしかなかった。

 

5時間、ようやく長野の宿へ到着。撫でられ続けた男ども尻は湯葉のようにシワシワになっていたことが、後の入浴時に確認された。移動続きやら車内の空気やらで精神は削られていたが、南九州で生まれ育った田舎者達は一面の銀世界に興奮し、元気を取り戻していた。文学好きのH君が「トンネルを抜けるとそこは雪国だったってこういうことなんだなあ」とボソッと呟いたので、「正しくは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ですよ」と指摘したら軽くキレられた。こういうところがモテないのかあ、と少年は思った。

 

宿での食事がどのようなものだったかはあまり記憶にないのだが、当時の日記には「犬でも食わない」と、かなり辛辣な評価が記されていたので、不味かったのでしょうね。

 

夕食の後は入浴時間だった。シワシワの尻を見ながら気が付いたことがあった。中学の修学旅行では、恥ずかしさからか股間を隠して入浴するものが散見された。「おい隠すじゃねーよオラ」とやんちゃ坊主が気弱な子のタオルをはぎ取るという悲しい事件が多発していた。しかし、高校生になってからは、最低限のエチケットとして軽く隠す、くらいのもので、股間が露見するのを極度に恐れている者はいなかった。「みんな大人になったんだなあ」と役立たない気付きを得ていた。

 

修学旅行においては就寝時間も立派なイベントである。今思えば酒もなしによくあれほど楽しめたなと思う。人は皆、かつては楽しむ達人だったのかもしれない。部屋が同じのメンバーをここで紹介しておきたい。本名はまずいし、イニシャルは憶えにくいし味気ない。彼らのその後の職業を名前代わりとする。

 

「教師」 180超の長身。モテる。サッカー部。交友関係広し。

「薬剤師A」 1人目の薬剤師。非常に優秀。弓道で全国大会に行った。

「薬剤師B」 2人目の薬剤師。まだ在学中かもしれない。サッカー部。小柄で童顔。「かわいい」という理由で女子からチヤホヤされる美味しいポジションを獲得。

「将校」 スポーツ万能。モテる。ラグビー部。防衛大に進学。高校では細身だったが、大学でマッチョになった。

「京大生」 職業を知らない。一浪して京大に進学した。顔が整っている。女子が振り向いたりする。恐らく院進しているのでまだ学生かもしれない。

「ぼく」 筆者。髭が濃い。薬剤師Aの尻をよく撫でていた。民間企業に就職するも退職。現在無職。たすけて。

 

改めて見ると、先述の理数科要素と相反するような個性の面子である。何なら私が一番陰鬱なプロフィールの持ち主ではないか。書くの嫌になってきたな。

 

修学旅行あるあるの「誰々可愛い議論」をした記憶がてんでない。たぶんしたと思うんだけど。そういった話題では将校と教師の2人勝ちだったから、劣等感から記憶を消去したのかもしれない。京大生はイケメンだったが硬派な男だったので、あまりそういう話はしなかった。カッコいいなおい。私はというと将校が持参していた3DSMH4をひたすらプレイしていた。弓でラギアクルスを狩っていた。弓が強いことを知ったのがこの旅行における私の「修学」のひとつだった。薬剤師A&Bがプレイ画面を見ていた記憶がある。

 

教師が騒ぎを聞きつけるくらいにはうるさくしていたのだろう。巡回をしていた物理教師と数学教師が飛んできて、廊下に正座というクラシカルな反省をさせられた。もう高校生だし「しょ~がねえな~もう寝ろよ~」くらいのテンションで済まされるのかと思ったのだが、しっかり説教された。数学教師は「もういいわ、そいつらほっとこう」みたいな感じで気怠そうにしていたのだが、物理教師が厄介だった。「何故お前らは皆のように静かに寝ないんだ」「皆と同じようにするか、お前らだけで好きにやるか、選べ。好きにしたいんだったら、今ここから出ていけ」と大日本帝国もびっくりの同化政策を押し付けてきた。「お前はどうするんだ、お前は、お前は。」と物理教師はひとりずつ回答を求めてきた。我々は面倒臭さを滲ませながら、形式的に「皆と同じようにします」と答えた。多分、全員頭の中はミルコ・クロコップになっていたと思う。

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ありがたいお言葉を頂戴し、15分後くらいに開放された。その日は白けて全員で呪詛を吐きながら寝た。

 

早朝、各自が設定したスマホのアラームが鳴り響く。寝不足なのですぐには起きられなかった。鳴った瞬間にアラームを消す作業が始まった。スマホ黎明期には今のようにiPhone一色ではなく、androidも一定の勢力を保っていた。しかし2012年には既に大多数の人間がiPhoneユーザーとなっていた。Appleアンチの私は今まで一度もiPhoneを持ったことがなく、当時もandroidだった。皆がiPhoneのアラームを消し終えた頃、私のandroidから轟音が発せられた。iPhoneが「テレレレレレレレ♪」だとしたら私のandroidは「ドゥンドゥドゥッチャッwチャチャチャッwチャチャツッチャッチャッタチャwドゥルルルルルルンwルルルルルンwww」という具合に変にテンションが高いものだった。昨夜の説教&寝不足&聞きなれない不快なアラームという状況が皆をイラつかせ「何だその珍妙なアラームは」「今すぐに消せ」「いい加減にiPhoneに買い替えろ」と非難轟々であった。私は静かに泣いた。参考動画を下に張り付けておく。

 

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こちらは大正義iPhone

 

 

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問題のアラーム音。40秒からのやつ。確かにムカつくなコレ・・・。何でこれに設定してたんだろう・・・。

 

 

この日から2日間はスキーだった。生まれて初めてのウィンタースポーツ。私は最後までブレーキが取得できず、PSGの10番くらいに転げまくっていた。それでも初めてのスキーは刺激的で楽しかった。この2年後、ウィンタースポーツでモテてウハウハになろうと画策した私はスノーボードに鞍替え、竜王スノーパークで盛大な逆エッジかまし、左膝の靭帯を断裂したのであった。私は行く末を悟り再び枕を濡らしたのであった。

 

 

話が逸れた。スキー班では少々メンバーに変更があった。教師と薬剤師B、確か将校も同じだった。そこに新たに追加されたのが以下3名。

「東大」 一浪して東大文1へ。学部在学中に司法試験に受かったと噂が流れる化け物。1年生の時にコイツが私の膝上に突然座りだし、何故かブチギレてしまって以来気まずい関係に。結構な変わり者。ネット上で「こんなにハイスペックな俺にふさわしい女はいないのか?」と大胆な発言をして一目置かれる。顔はそんなに良くない。

「オタク」 オタク。ステレオタイプなオタク。卒業後なにをしているか知らない。直球のネーミングになってしまい申し訳ない。かなりの巨漢。名前の関係で体内にW型16気筒エンジンを搭載しているのではと噂される。

「メガネ」 メガネ。本名も忘れた。この後大した出番もないので、以降出てこない。これきりである。さようなら、メガネ。

 

少しらしさがでてきましたね。全員スキーは初体験だったと思うが、将校は持ち前の運動神経ですぐ滑れるようになり、スイスイ先に進んで、見えなくなってしまった。そういえば体育の授業でのサッカーも異常に上手かったな。

 

将校を除くメンバーはインストラクターに先導されながら滑っていた。うまくターンできずに苦戦。薬剤師Bが他クラスの女子集団(めちゃくちゃ可愛い)の前で転倒した。からかってやろうと思ったのも束の間、女子達から「かわいい~」と黄色い声が上がり、したり顔の薬剤師Bがいた。ずるくない?

 

私も後に続こうと女子集団の目の前を滑ったのだが、いざ転ぼうとなると羞恥心が勝り、そのまま通り過ぎてしまった。女子達から見れば急に知らない男が近付いてきて、そのまま目の前を過ぎ去っていったという若干ホラーなシチュエーションを創り出してしまった。

 

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その後、薬剤師Bが妙なことを言い出した。

「ジャブを打ったら打った手の方に曲がれるぞ!」

これは本当だった。教師と私は夢中になってジャブを打ちながら滑って行った。いささか滑稽だったと思う。ジャブターンを習得し、一通り滑れるようになった我々を見て、インストラクターは少し難しめのコースに挑もうと提案をしてきた。なんのそのと息巻いていたものの、そこそこスピードが出るし、ターンの角度も今までより急だった。教師が「曲がんねえ!曲がんねえ!」と絶叫しながら拳を打ち続け、そのまま転倒したと思いきや、ジャブターン発案者の薬剤師Bも「これは無謀や~!」と絶叫、ザザァと音を立てながらクマザサに突っ込み、姿を消した。その様子があまりに可笑しくて、姿勢制御が不能になった私は、東大生に激突してしまい、2人もろとも転倒した。2人とも黙って立ち上がり、黙って滑走を再開した、今思い出しても気まずい。

 

問題なのはオタクだった。体重0.1トンはあったであろう彼は、見た目に違わず運動は不得手だった。それはいいのだが、転倒する度にアニメキャラがダメージをうけてときっぽい声を上げるのだ。「うぐあッ」「あぁっ、つぁッ」「うぐぅ」といった具合。笑いのツボに入ってまともに滑れる状態ではなくなってしまった。

 

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この犬夜叉まんまなリアクション。「ダメージボイス」で調べたらヒットした動画なのだが、「男リョナ」なるジャンルがあるのか・・・。コメント欄が完全に変態の集会である。

 

普通に滑っているときに転倒して犬夜叉になるのは100歩譲っていいとして、問題なのはリフトを降りるときであった。リフト降下時には変に前に進もうとせず、そのまま立っていれば勝手に滑っていく。妙に力を入れるとコケるから気を付けろとインストラクターは何度も釘を刺していた。しかしオタクはそれがうまいことできなかったようで。さあもうすぐリフトを降りるぞ、次こそはうまくターンするぞ、と意気込んでいると前方から「うぐあッ」とオタクの叫び声が聞こえる。オタクが転倒している。リフトが止まる。インストラクターの指導が入る。

「いいかオタク、降りるときは直立不動だ。何もするな。そうすれば勝手に滑っていくからな。いいな?」

大きく頷くオタク。よし頑張れ。さあ、次のリフトがやってきたぞ。もうすぐ降下だ、そっとそっとだぞ。

「うわぁッ!!」

いい加減にしろ!何回犬夜叉になるつもりだ!2~3回ならいいが、結局オタクは10回以上も犬夜叉になり、同じ回数リフトを止めたのであった。リフトに乗る際は、いかにオタクの前に座るかが重要だった。

 

前に座ってくらいでは収まらないのが犬夜叉、じゃなかった、オタクなのである。オタクストッピングを掻い潜り、スピーディに次の滑走を始めることができ、上機嫌で滑っていたその時であった。「どけッ、どいてくれッ」と後方からオタクの絶叫が聞こえる。振り向くと、何故か姿勢制御不能になったオタクが、途轍もないスピードで私に向かってきていた。お前実は動けたのか、ザメルじゃなくてジ・Oだったのか、と感想を述べる間もないまま、私はオタクに銀世界へと押しつぶされた。速度×重量の威力は言葉を失うほどだった。物理教師の教えを身をもって学んだのであった。尋常ではないダメージに、今度は私が犬夜叉になっていた。うぐぅ。東大生がふいと横を通りがかり、「災難だったな」と一言残し去っていった。何そのタイミング。仲直りのタイミング今じゃないでしょう。実際に、これが東大生と交わした(?)最後の会話であった。

 

色々なダメージを負ったスキーだったが、非常に楽しかった。ウィンタースポーツに興味を持って大学ではスノーボード部に入った。技術的には全く上手くならなかったが、素晴らしい先輩後輩に巡り合えたので、この修学旅行で得たものは、間接的にではあるが大きかったと言える。

 

2日間を長野で過ごし、4日目に東京にトンボ返り。東京到着後に昼食をとったのだが、冷えたベチャベチャのスクランブルエッグと、怪しいキノコソースのかかったこれまた冷えたハンバーグだった。何もかもが不味かったのを憶えている。昼食の後は、ディズニーランドで遊びなさいタイムが始まった。初日のバスで見事な非モテっぷりを見せた私だったが、ちゃっかり彼女をつくっていたので、ディズニーランドでは彼女と過ごした。ただ、彼女と合流するまでは2名の薬剤師と過ごしていたのだが、その間はもうつまらなくて仕方がなかった。男3人でディズニー。楽しみ方がロクに分からなかった。とりあえずパイレーツオブカリビアンのアトラクションに乗って、「はぁ」「ふーん」「ほーん」とか言っていた気がする。彼女と何をしたかはほとんど記憶がない。唯一憶えているのが、トイストーリーのキャラクターを模した「リトルグリーンまん」なる緑色の物体を食べたことである。ちなみにこの彼女は精神的に不安定な部分があり、不登校&音信不通となり、久々に学校に来たと思ったら退学した。願わくば東大生にはここで「災難だったな」と登場してほしかったなぁ!

 

ディズニー後は舞浜のホテルで一泊。ホテルの中心には巨大な吹き抜けがあり、これまた巨大なクリスマスツリーが設置されていた。他クラスの可愛い女子から「〇〇くん、写真とってくれない?」と声をかけられた。「僕の名前知ってくれたんですねぇ!」と心の中で絶叫した。余談だが、個人的に「絶叫する」という表現に可笑しみを感じてしまう。大好きな言葉である。故に当ブログでは毎回のように誰かが絶叫しているが、「そういうものだ」と流し見していただきたい。写真を撮ったのち、トイレで手を洗っているときに鏡に映った自分を見て気付いたのだが、そのとき着ていた体操着のジャージにくっきりと私の苗字が刺繍されていた。ああ、そういう・・・。

 

ホテルからはちょっとした夜景が見えたので、ホテル慣れしていなかった私は超高級なホテルに泊まった気分だった。興奮していた。シャンプーが信じられないくらいに良い香りだったのを記憶している。翌朝、再び興奮気味で窓から外を眺めた。夜には気付かなかったが、海が冒涜的な色彩を帯びていて、「都会の海って汚いんだな」と薬剤師Bに話しかけたら、無視された。

 

 

5日目、最終日である。目玉とも言える都内での自由行動だった。旅行前に日程を班メンバーで協議しているとき、私は「小笠原諸島に行きたい」と発言したのだが、本土から船で片道20時間以上かかるので、当然のように却下された。我々のプランは、午前中に新宿で遊び、その後秋葉原メイド喫茶を楽しみ、昼食を築地で食べ、その後集合場所へ帰還、というものだった。

 

第一目的地である新宿に着いた。駅から降り立った瞬間、摩天楼に圧倒された。どこから目を付けたらいいか分からない少年達は、道行くビジネスマンに注目した。「ここはビジネス街ではないのか」「遊ぶ場所などないのではないのか」「時間がもったいないからいますぐ秋葉原に向かうべきだ」という意見が飛び交い、新宿駅を滞在時間2分で後にした。都会すぎて訳が分からなくなっていたのである。漫画『BLEACH』における、霊圧の差がありすぎる場合は何も感じとれないという設定と全く同じことが起きていた。

 

速攻で第二目的地の秋葉原へ。私はオタクがいないか危惧したが杞憂に終わった。でも絶対アキバには行っていたと思う。メイド喫茶は教師の提案だった。曰く、「これを逃したら俺たちは一生メイド喫茶に行くことは無いから、今行くしかない」ということだった。秋葉原についてから適当に歩いてると、どでかいメイド喫茶の広告幕が垂れ下がっているビルがあり、まああそこでよかろうということになった。今になって振り返ると謎だが、当時、私はメイド喫茶にある種の恐怖感を抱いていた。そもそも女性と話し慣れていないというのに萌え萌えキュン的な羞恥に塗れた行為を迫られるのかと思うと背筋が凍る思いだった。最後まで抵抗し続けたが、遂に折れて冥土逝きを決意したのだった。

 

怪しいビルの怪しいエレベーター(当時の心境)で目的階へ昇る。私のイメージでは、各階には複数のテナントが入っており、そのひとつとしてメイド喫茶があると決めつけていた。つまり、エレベーターの扉が開くとまず廊下があり、その後に目的へ部屋に向かう、という想定をしていた。覚悟を決めるまでの猶予がひととき与えられるはずだった。しかし、実際にはその階全てがメイド喫茶であった。扉が開いた瞬間にピンク色の空間が目に飛び込んできた。血の気が引いたのを憶えている。何だかイケないお店に来てしまったと感じた。入店した瞬間、「うわぁぁお母さんマジごめんなさいごめんなさい」と母親に謝罪した。当時の私はピュアだったのである。

 

実際のサービスは別に破廉恥なことは当然なく、一般的なメイド喫茶のイメージそのものだった。美味しくなあれ的な呪術も登場した。隣の席には外国人家族が座っていたが、呪術サービスがいまいまピンときていなかったようで、「hmm?」みたいな顔をしていた。あれだけが日本のイメージとして彼らに定着していなければいいのだが。

 

そろそろ出ましょうか、ということで会計。飲み物代、ケーキ代(スカスカでクソ不味かった)、チェキ代の他、「入国料」なる独自の思想が反映された明細表が渡された。ご主人様なのに入国料がいるのである。一人4,000円ほどだったと思う。田舎の高校生からしてみると、法外な金額に感じられ、やはり東京は怖い所だと思わせるのに十分であった。当時の私はカッコつけ方をだいぶ誤ったベクトルに向けていた。「財布とかもってないほうがカッコよくない?」とアホ丸出しの発言をしていた。一万円を出し、お釣りの数千円を無造作に学ランに突っ込んだ。すると、メイドが「え、ご主人様、それは危ないですよ」と明々白々のツッコミを入れ、財布代わりのジップロックを渡してくれた。優しい。

 

そういえば、去年友人と暇つぶしに人生2回目のメイド喫茶にいったが、「ご主人様、煙草は吸えないんです」と言われた。入国料の件といい、メイド喫茶における「ご主人様」には実態が伴っていないのである。ちなみにこの時、ブラックコーヒーを頼んだので、砂糖とミルクを投入後の美味しくなあれ呪術サービスもなかった。ただの喫茶だった。

 

秋葉原の後は、美味い飯を食うために築地へ。駅を降りた瞬間に、市場がドーン、辺り一面魚介類だらけ、という想像をしていたのだが、普通に大都会だった。朝日新聞社の巨大なビルに漏らしそうになった。市場に到着し、寿司屋に入った。店のおばちゃんが「いっちゃいなよ、you、トロいっちゃいなよ」と発破をかけてくるので、私は奮発して大トロ寿司定食を頼んだ。これまでの食事がひどいものばかりだったのもあるだろうが、人生で一番美味いと感じた。

 

この東京自由行動の日に皆、思い思いの土産物を買う。多くの生徒が、都会でしか手に入らないハイカラな服を買っていたのだが、ここでも誤ったカッコつけが爆発し、「服なんかよりもっと実益のあるものがいいだろう」ということで、私は市場で毛ガニとアワビを買い付けた。支払いの際にジップロックを取り出しのが、ある意味業者っぽかった。

 

移動に手間取った所為で、集合時間に間に合うかギリギリになっていた。田舎者たちは都会を走った。横断歩道を走っているとき、寿司を食ったことによりテンションの高まった教師が、走りながら「すしざんまい」のポーズをとるという奇行に及んでいた。私も同じく興奮状態だったので、マネをしたところ、激しく動きすぎた所為で、保冷袋から勢いよく毛ガニが飛び出し、道路を滑走していった。慌てて回収した。カニミソとか漏れてないかな、と心配になった。

 

集合場所についてからはほとんど記憶がない。空港で進撃の巨人の新巻を買って飛行機で読んだことくらい。

 

家に着いた後、家族でカニとアワビを喫食した。いつもは「あんた私の分も食べなさい」と言ってくる母親だが、この日は黙ってカニを食い続けていた。美味かったのだろう。私は満足して寝た。

 

振り返ってみると、意外なところで興奮したり、動揺したりしている。そしてカッコつけ方があまりに空回りしている。高校生と言えど、年相応の子供だったのだ。あと、今はちゃんと財布を使っている。